Lundi 25 juillet 2005

ピノキオの物語。
ピノキオを悪の道に誘い込む悪賢いキツネ御存知でしょうか?グラン コカンと言います。
マルセル3姉妹を離れて20歩ぐらいすると突然大きな人物が私達親子を杖を付きながらめざしてやってきました。はっとするくらいの大きな顔 顔の作りも目も鼻も口も
それに伴って手も足も みんなみんな大きい 。とてもとてもうそのように大きな靴。190cm程もあると思われる大きな上背を傾けてドスの効いた低音でお べっかを使うように 御機嫌よう と言うのです。口が裂けてそれはまた大きく黄色がかった歯が現れ 山高帽の下からはみ出した耳は大きく尖がっています.次女は私の後ろに隠れ私の上着を引っ張りながらママ ママ お耳の中に毛が生えているよ。 どうして あんなにお耳が尖がっているの と囁きます。グラン コカン?とだんだん激しく私の上着はのどもとまであがってきました。。本当にピノキオの世界に入り込 んだのごとくです。
ジレ爺さん 当時75歳くらいでしょうか?ダニエルの名前でやはり村では知られていました。この方も5年くらいのお付き合いの後に亡くなられました。  
やはり父親の代からの当時引退の漁師で大きな荒れ果てた土地を持ち葡萄を植えアルコールを作っていたようです。本当は御法度なんだと赤い鼻をぴくぴくさせながら語ります。
村に住むようになってから村の幼稚園と小学校に娘達をいれました。幼稚園は保護者が直接先生に委ねなければいけないのです。着いたばかり 中国人 と目を 引きつった仕草でからかわれることあり2人ともママ給食は嫌と言われ専業主婦の弱みでお昼迎えに送りに行く毎日でした。私達の時間帯を心得ているのですよ ね。
ジレ爺さんの前に郵便やさんの自転車が泊まっているときはしめたもの 2人でお酒を飲みながらかなりの時間をかけて話し合っている証拠。ちなみに1番初め に遭遇した郵便配達の赤ら顔のお兄さんは我が家にたどり着く時は熟れたトマトのごとくのことほとんどというぐらいいつもでした。村では皆知り合い同士 戸 を叩き親切に手渡し誘われて一杯のアペリティフが重なると???。この地区は 年配の方が多く皆さん新しい情報待っています。それに村では長寿の方々多く さびしいのでしょう。これも社交でしょう。配達人も色々人々のエピソードをたくさん知っています。
私達は知らぬ遠くからきたもの達。興味深い対象でしょうね。餌食にならないように心得構えて受身に聞いて色々村の歴史勉強できました。隣の奥さんに随分色々な事
知っているのねと言われまたその彼女も色々なアングランの昔のことを語ってくれました。
どうしてこの道を通るの?と詰問しないで下さい。この道を避けるとゆうに4倍の遠回りです。私は赤頭巾ちゃんのように森の中を楽しんで散策するにはあまり時間の余裕はありませんでした。朝昼夕方3回学校と家の往復ですよ。いくら専業主婦でもやることは沢山あるのですから。
ジレ爺さんは私達に初めての手と足と小さい網をつかって沿岸での貝やら海老等の採り方の手ほどきをしてくれた方です。ちなみに9月は海老採り最高の時期です。
ジレ爺さん 私が捕まらないときには庭で収穫したアーモンドやら我が家の前の海で雲丹を取って押しかけておしゃべりに来ました。雲丹はこちらではあまり食 べません。日本と異なり水っぽくてあまり美味しくはありませんでしたが市場で求めても同じようなものでした。私が雲丹は好物といったせいでしょう。年が経 ちもう何年も雲丹など市場で見かけたことありません。消滅してしまったのでしょうか?


Dimanche 24 juillet 2005
 私は大西洋岸ヨットハーバーで知られた港町 ラロシェル La Rochelleより10kmほど南の昔の漁村  今でも村のカテゴリーのアングランAngoulins に住んでいます。1990年に住み着くまではパリ ラロシェルの街の中で車は必要ない生活でした。その延長 当時は車を購入せずよくテクテク歩きました。日本の免許書を書き換えせず無効にしました。最終的にはフランスの免許を取り直したのですが。
ラロシェルの街から戻ったバス停から我が家にいたる道は3姉妹の家で始まります。マルセル、オデット、シモーヌ 皆2歳違い 3人とも同じような家造り 前に少々の庭と後ろに畑地が。この地方では塀が全然その目的を持たないかのように低く出来ています。人々との会話と監視の意味が含まれているのでそうです。春になり天気がよくなり寒くなるまで前を通ると突如マルセルは現れます。マルセルは長女すべてにおいて支配しています。グリルで出来た塀にがっしりした腕を乗せ掛けて(海の仕事で働いた人です)色々おしゃべりが始まります。話は尽きません。この辺の情報通でもちろんゴシップにも通じこの界隈の人間関係 村の過去のこと彼女の過去をまぜながら我が家の娘達のことにも話が移ります。娘たちはまだ8歳と5歳。 とても礼儀正しいと気に入られて彼女達も学校帰りにつかまりかなりおしゃべりをして帰ってきます 。彼女はお父さんが漁夫 彼女は牡蠣の養殖に携わっており会社を設定。私は3人姉妹の株式会社の会長で現在は引退していると説明しました。善意にあふれている人なのですがそれでも私は何も知らずの異国人 怖いので礼儀正しく控えめにそれでも今でも仲良くお付き合いしています。一人息子は20歳でなくなりその上早くから未亡人。このことに触れると涙を流しその後笑顔で終えると言ったら彼女の性格お分かりになるでしょうか?3人姉妹とも皆早くから御主人をなくされました。
やっと会話が終わり何歩か歩くと隣のオデットが出てきます。またまた娘達の話題で会話が始まります。その次は?もちろんシモーヌですよね。当時若い人たちの住んでいない地区で私達異国人と子供達は興味深かったのでしょう。でもそのやさしさは漁村の方言が強さにも係わらず伝わってきました。
現在マルセルは80歳になったでしょうか?いまだにしっかりと杖に頼りながらもいつでも塀越しに誰かと話しています。オデットは亡くなりましたがシモーヌ足が不自由でも家の前のアトリエで金鎚で海から運ばれてきた牡蠣の周りの汚れをトンとたたきながら働いているのを見かけます(蠣の養殖に携わる人はとても大変な仕事だと思います。いつもその仕事振りを目にしているので。)それでも今では車使用の多い私が歩いて散歩したり自転車に乗って通ると杖を突きながらどうしたの車は?問題があるの?と駆け寄ってきます。
車を使用するようになってから初めのころマルセルが杖を振り回しながら遠くから現れるのを目にしました。私と話をするため。車を止められたことが何度もありました。また止められないときには車から微笑んで挨拶をすると後で娘がママ マルセルにママはにこやかでは無いと言われ恥ずかしいと言われ今では大げさ気味のジェチャーで答えています。
娘達は小さいころバカンスで出かけるとマルセルに絵葉書を送っていました。あまり手紙を受け取らない彼女にとって温かいメッセージだったのでしょう。大きくなった娘達に今でも愛情注いでくれています。昔の村の地域では誰でも知っている名物人です。

バス停から私の家まではおよそ350mです。家にたどり着くまでに1時間以上費やしたことまれではなかったです。
本当の話です 。

Samedi 23 juillet 2005

の朝 ほとんど毎日のように私の住む村のパン屋さんに今凝っているSarmentine(サルマンチーヌ)を探しに行きました。7時になるとお店が開き幸せなにおいが漂っています。私が早起きと言うわけでなく皆さん顔を知り合った人達が散歩がてら集合です。フランスでは街はもちろんどんなに小さな村でも必ずパン屋さんはあります。社交場 情報の交換場ですね。朝焼き釜から出たばかりのまだパチパチと音楽を奏でている温かいパンを食べる幸せはフランスだと思いませんか?塩の華が少々加えられている特産の生バターを塗ってコーヒーやカフェオレでの始まりはそれだけでも一日の活動力になります。もちろん自家製のスモモやらイチジクやらのジャムと今旬の当地産のメロンとまた当地産の生ハムを添えて。季節のあふれる果物と朝のテーブルはソロからコンツルエント 日によってはオーケストラになることも我が家ではあります。フランスの朝食はパンとバターとジャムと言われ先ごろでは色々なコンフレーク等のセレアルまたは何も食べずと言う傾向があるのはとても残念なことと思います。
サルマンチーヌは小麦粉の中に胡麻がひっそり隠れてはいっているのです。サルマンとは葡萄の小枝のことです。 美味しいワインを生む葡萄の樹は人間の一生と同じ20歳を超えひとり立ち40歳で熟し本当の魅力的なワインを生む葡萄を生み出します。
Vive la sagesse. 

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